老後の生活設計を考えるとき、公的年金の存在は非常に大きなものです。日本の年金制度では、原則として65歳から老齢年金の受給が開始されます。しかし、個々の事情に合わせて、受給開始を早める「繰り上げ受給」という選択肢が用意されているのをご存知でしょうか。
「少しでも早く年金が欲しい」と考える方もいれば、「減額されるのはもったいない」と考える方もいるでしょう。この繰り上げ受給は、一度選択すると生涯にわたって影響が続く、非常に重要な決断です。本記事では、年金の繰り上げ受給の仕組みと、そのメリットやデメリットを詳しく解説し、どのような人がこの制度の利用を検討できるか、その特徴を明らかにしていきます。
そもそも繰り上げ受給とは?
公的年金は、原則65歳から受け取る老齢年金が基本です。しかし、希望すれば60歳から65歳になるまでの間に受給を開始することができます。これが繰り上げ受給です。この制度を理解する上で、早くもらうことの代償である減額率と、基本的なルールを知っておく必要があります。
早くもらう代償減額率
繰り上げ受給を選択した場合、本来65歳で受け取るはずだった年金額から、一定の減額率が適用されます。この減額率は、1ヶ月早めるごとに0.4%(※2022年4月以降の制度。それ以前は0.5%)と定められています。例えば、最も早い60歳0ヶ月から受給を開始すると、60ヶ月(5年)早めることになるため、0.4%に60ヶ月を掛けた24%が、生涯にわたって減額されることになります。仮に65歳で月10万円もらえるはずだった年金が、60歳から受け取ると月7万6千円になる計算です。この減額は、一度決めると取り消すことができず、一生涯続くという点が最大のポイントです。
繰り上げ受給の基本ルール
繰り上げ受給は、私たちが加入している公的年金、つまり国民年金(老齢基礎年金)と厚生年金(老齢厚生年金)の両方で利用できます。ただし、ここで注意が必要です。もし厚生年金の加入期間がある人が繰り上げ受給を申請する場合、老齢基礎年金と老齢厚生年金は必ずセットで繰り上げなければなりません。「生活費が足りないから、国民年金だけ先に欲しい」といった選択はできないルールになっています。また、この制度と対になるものとして、受給開始を66歳以降に遅らせる「繰り下げ受給」もあります。繰り下げ受給を選ぶと、逆に年金額が増額されるため、どちらが自分のライフプランに合っているかを慎重に比較検討することが求められます。
繰り上げ受給の大きなメリット
年金額が一生涯減額されるという大きなデメリットがありながらも、繰り上げ受給を選択する人がいるのは、それを上回るメリットを感じるからです。その利点は主に、直近の経済的な安定と、将来の健康不安への備えという二つの側面に集約されます。
いますぐの生活の安定
繰り上げ受給の最大のメリットは、65歳を待たずに安定した収入源を確保できることです。例えば、60歳で定年退職した後、再就職先が見つからない場合や、病気や介護などで思うように働けなくなった場合、65歳までの数年間の生活費に不安を抱えることは少なくありません。貯蓄が十分でない場合、この無収入期間は精神的にも大きな負担となります。繰り上げ受給を利用すれば、たとえ減額されたとしても、毎月決まった額の年金が振り込まれるため、当面の生活を支える確実な基盤となり、経済的・精神的な安心感を得ることができます。
健康不安や平均余命への備え
もう一つのメリットは、自身の健康状態や余命を考慮した選択ができる点です。自分が健康で長生きできる自信があれば、65歳まで待つか、あるいは繰り下げ受給を選ぶ方が得策かもしれません。しかし、持病がある、あるいは家系的に短命であるといった不安を抱えている場合、「長生きして元を取る」ことよりも、「元気なうちに、確実にお金を受け取る」ことを優先する考え方もあります。自分が受け取れるはずだった年金を、十分に使えないまま生涯を終えることを避けるために、あえて早めに受け取り、趣味や旅行など、体力があるうちにやりたいことへ使うという選択も、人生を豊かにする一つの有効な手段と言えるでしょう。
知っておくべき重大なデメリットと損益分岐点
繰り上げ受給のメリットに目を奪われがちですが、その代償は非常に大きいものです。生涯続く減額はもちろんのこと、それに加えて他の社会保障制度の利用に制限がかかる可能性があるため、表面的な金額だけで判断するのは危険です。特に損益分岐点と、他の年金制度への影響は、必ず理解しておく必要があります。
一生涯続く減額と損益分岐点
繰り上げ受給の最大のデメリットは、減額された年金額が一生涯続くことです。このとき、多くの人が気にするのが損益分岐点です。これは、65歳から受給を開始した場合の総受給額が、繰り上げ受給をした場合の総受給額を上回る年齢のことを指します。例えば60歳から24%減額で受け取った場合、この損益分岐点は、計算上およそ81歳頃になります。つまり、81歳よりも長生きした場合は、65歳から満額で受け取り始めた方が総額は多くなり、逆に81歳より前に亡くなった場合は、繰り上げ受給をした方が総額は多くなる、という目安です。長寿化が進む現代において、81歳を超える可能性は十分に高いため、長期的に見ると損になる可能性を認識しなければなりません。
他の年金制度への影響
見落とされがちなのが、他の年金制度への影響です。特に深刻なのは「障害年金」との関係です。年金制度には、病気やケガで障害が残った場合に支給される障害年金(障害基礎年金・障害厚生年金)があります。しかし、老齢年金の繰り上げ受給を一度申請してしまうと、その後にもし重い障害を負ったとしても、原則として障害基礎年金を請求できなくなります。これは人生の大きなリスクに対するセーフティーネットを一つ失うことを意味します。また、配偶者が亡くなった際に受け取れる「寡婦年金」や、国民年金保険料の未納期間がある場合に利用できる「任意加入」制度なども、繰り上げ受給をすることで権利が消滅したり、受給額が調整されたりする場合があります。単に老齢年金が減るだけではない、こうした複合的な不利益を深く理解することが不可欠です。
繰り上げ受給を検討できる人の特徴
これまでに見てきたように、繰り上げ受給はメリットとデメリットが非常にはっきりした制度です。全員に当てはまる正解はなく、個々の状況によって最適解は異なります。では、具体的にどのような人が繰り上げ受給の利用を真剣に検討できる価値があるのでしょうか。
65歳までの収入確保が難しい人
最も切実な理由は、65歳になるまでの収入が途絶えてしまう、あるいは大幅に減少してしまうケースです。60代前半で退職した後、十分な貯蓄がなく、健康上の理由や雇用のミスマッチで働くことが難しい場合、年金受給開始までの数年間をどう乗り切るかは深刻な問題です。特に、生年月日によって65歳より前に支給される特別支給の老齢厚生年金の対象とならない世代の人々は、この収入の空白期間(いわゆる「年金の谷間」)が現実的な問題となります。このような場合、繰り上げ受給による減額を受け入れてでも、目の前の生活を維持することを最優先に考えるのは合理的な判断と言えるかもしれません。
貯蓄が十分にある人
これは少し意外に思われるかもしれませんが、逆に十分な金融資産を持っている人も、繰り上げ受給の選択肢に入ります。生活の基盤となる資産が既にあるため、公的年金が生活費の柱である必要がありません。この場合、年金の減額を「損」とは捉えず、むしろ「元気なうちの小遣い」として割り切ることができます。60歳から減額された年金を受け取り、それを趣味や旅行、孫へのプレゼントなどに充て、主要な生活費は貯蓄や他の資産運用で賄うというスタイルです。損益分岐点を気に病むことなく、早期からキャッシュフローを増やして人生を楽しむという、余裕のある選択と言えるでしょう。
健康状態に不安がある人
メリットの部分でも触れましたが、ご自身の健康状態に大きな不安を抱えている人も、繰り上げ受給の有力な候補者となります。平均余命はあくまで統計上の平均値であり、すべての人に当てはまるわけではありません。持病の悪化や将来的な体力の低下を現実的に考慮し、損益分岐点とされる年齢(約81歳)まで長生きできる自信が持てない場合、65歳からの受給を待つことにリスクを感じるかもしれません。年金は、受け取ってこそ意味があるものです。確実にもらえる期間を優先し、早めに受け取って有効に活用するという考え方は、個人の価値観として尊重されるべきでしょう。
まとめ
年金の繰り上げ受給は、65歳を待たずに60歳から年金を受け取れる制度ですが、1ヶ月早めるごとに0.4%、最大で24%(60歳開始の場合)の減額率が適用され、その減額された金額が生涯続くという大きな特徴があります。
この制度の最大のメリットは、65歳までの収入がない期間の生活を支え、経済的な安心感を早期に得られることです。また、健康に不安がある方が「元気なうちに受け取りたい」という希望を叶える手段にもなります。
一方で、デメリットは深刻です。生涯続く減額により、長生きした場合には損益分岐点を超えてしまい、65歳から受給するよりも総受給額が少なくなる可能性が高いことです。さらに重大なのは、繰り上げ受給を選ぶと、将来的に障害を負っても障害年金が受給できなくなったり、寡婦年金の受給に影響が出たりするなど、他のセーフティーネットを失うリスクがある点です。
繰り上げ受給を検討できるのは、65歳までの生活費の確保がどうしても難しい人、逆に十分な資産があり年金に頼らなくても生活できるため損益分岐点を気にする必要がない人、あるいは健康上の理由で早期受給を強く望む人など、特定の事情を抱えた場合に限られるでしょう。
年金の繰り上げ受給は、一度選択すると二度と取り消すことができません。目先の生活費だけでなく、ご自身の健康状態、貯蓄額、そして障害年金などのリスクも天秤にかけ、長期的な視点で判断する必要があるでしょう。決断に迷った場合は、決して一人で抱え込まず、お近くの年金事務所や社会保険労務士などの専門家に相談し、ご自身の状況を客観的に分析してもらうことを強くお勧めします。


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